(退廃音楽について つづき)

権力者側から迫害を受けた芸術家たちは、
権力とどのように対峙し、その後どのような創作活動を行い、どのような社会的立場をまっとうし、どのような生涯をおくったか、…
というのは、20世紀以降の芸術を考察する上で、不可欠なテーマである、と思っております。
(音楽でいうなら、無調や十二音であるかどうか、偶然性を取り入れているかどうか、アコースティックか電子音か、といった技法的なことを論ずるよりも、はるかに重要かと思います。)


さて、これまた念のため、
こうした音楽作品に接する時の注意なんですが…

例えばシュールホフの作品の中には、
真面目な方ならば、きっと、
「いったいなんだこれは! やっぱりこれは『退廃音楽』だ!」
などという風に、お怒りになりかねない作品が、いくつか混じっております。
ここではあえて作品名は挙げませんが、
詳しい方ならば「ああ、あれか」と、思い当たる作品があるでしょう。
どうかそのような作品にめぐり会いました時には、
ユーモアとウィットを忘れず、寛容なるお心をもって接していただきたいことを、
作曲者になりかわって、お願い申しあげる次第であります。

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(退廃音楽について)

「退廃音楽」(*)と、いうのはですね…
(ご存知かとは思いますが、念のため)

う~~んと簡単にまとめてしまうと、
「ナチス・ドイツが、自分達の政治的・思想的方針に合わない音楽・音楽家を、封印・弾圧するために貼り付けたレッテル」
のことです。
(*)以前の記事では「退廃芸術」という言葉を使いましたが、一般的にこの言葉は、迫害された美術作品に対して使われるようです。よって、ここでは一般的な用法にならい、「退廃音楽」という言葉を使うことにします。

ユダヤ的、親共産主義的、無調的、表現主義的、軽音楽(主にフォックストロットやジャズ)的… などなど
権力者側にとって都合の悪い、あらゆる作品・作曲家たちがここに含まれ、晒し者にされ、弾圧されました。
ある者は亡命を余儀なくされ、発表の機会を奪われ、またある者は、強制収容所などで生命を失いました。
シェーンベルク、ヒンデミット、クシェネク、シュールホフ、ハース、ウルマン、ゴルトシュミット… などの名前が挙げられます。
(Deccaには、「退廃音楽」というシリーズがあります。)

ごく大雑把にいってしまうと、
旧ソヴィエトにおいて、体制の方針に従わない音楽作品や音楽家たちが、「フォルマリスト(形式主義)」というレッテルを貼り付けられ、弾圧・迫害されたのとよく似ています。

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(マルチヌーに関するメモ)

はい。

ボフスラフ・マルチヌー(*)も、エルネスト・ブロッホと同じ年に他界しており、

本年が没後50年にあたります。

    ((*):「マルティヌー」と「マルチヌー」、どちらが原語発音に「より近い」のか、不勉強でよくわかりませんが… 「ニューグローヴ世界音楽大事典」(日本版)では、「マルチヌー」の表記になっておりますので、ここではそれに従っておきます。

   各媒体でも、「マルチヌー」の表記が多くなってきているように感じられますし… 「日本コロムビア」では、かなり以前から「マルチヌー」の表記でしたね。)

   

さてこの作曲家、とにかく速筆多作な人でしたので… (約400曲もの作品があります)

聴いても聴いても、あらゆるジャンルに、未聴の作品がまだまだある。

とても「全体像をつかみ得た」という感じがしない。

未だにそんな感じなのですが、

どうやら、「すばらしいオペラ作家である」らしい、ということが、おぼろげながら分かってきました。

  

「ジュリエッタ」、「ミランドリーナ」… などなど、いくつかの作品を聴いてきましたが、やはり第一に挙げるべきは、

晩年の傑作、「ギリシャ受難劇」でしょう。

ギリシャの文豪、ニコス・カザンザキスの「ふたたび十字架にかけられるキリスト」(あるいは、「キリストはふたたび十字架に」)を原作とします。

ニコス・カザンザキスは、映画に詳しい方々にとっては、「その男ゾルバ」の原作者、と言ったほうが話がはやいかも知れません。(ちなみに、こちらの映画には、ギリシャのミキス・テオドラキスが音楽を付けています。)

    

(劇中における)現実世界、

劇中劇(劇中で登場人物たちが上演しようとしている劇)、

そして(登場人物たちにとって歴史的・宗教的事実である)イエス・キリストの受難。

これらが交差する、暗示的で、少々手の込んだストーリー。

作曲者自身が台本を作成した、とのことですが、大変な執念です。(マルチヌーが単なる速筆多作だけな人、という安易な先入観は、これで完全に吹き飛んでしまいます。)

よくぞ2時間ほどのオペラにまとめあげましたね(原作者もその才能に驚嘆した、とのことです)。

   

台本の日本語対訳が手元にありませんので、「日本マルチヌー協会公式HP」に掲載されている対訳と照らし合わせながら、

何度もマッケラス盤(スプラフォン)を聴いているところです。

まだまだ咀嚼しきれていませんが、ようやくいくつかの楽想が、耳にこびりつくようになってきました。

   

さて、以前にも書きましたが、晩年のオーケストラ作品の中で特筆されるべきは、

やはり「交響的幻想曲」(交響曲第6番)でしょう。

曖昧模糊とした曲想、

見通しのつかない形式・全体構成。

はじめて接した時は、どう聴いたらよいか分からなくて、途方にくれましたが…

何度も聴き、いろいろ文献・解説・資料を読むうちに、

「ああ、これは、人生を回顧する『夢』(*)なんだな。」

と、心にひらめくものがありました。

 (*)この「夢」には、

    文字通りの「夢」、この上もなく美化された、美しい、幻想的な思い出もあれば、

    絶対に思い出したくもない、恐るべき「悪夢」もあります。

 作曲者の深層心理にくっきりと刻印された、ありとあらゆるものを含んでいるのだと思われます。

ゆえに、非日常的・非論理的であり、はっきりした形がない。

一見、とりとめがないように見え、どのように展開するのか、見えにくい。

  

…それでも、心に深くうったえかけてくる、様々な楽想をもつ、

ほんとうに不思議な作品です。

晩年の作品は、みなある程度「回顧録」的な性格をもっていますが…

(そして、やみがたい望郷の念が宿っていますが…)

その中でも、この「交響的幻想曲」の、とてつもない深さは、特筆されるべきものでしょう。

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(弦楽器のための二重奏 & 無伴奏 作品)

クレーメルの「ロッケンハウス・エディション」Vol.4&5、
私はショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲目当てで購入しました。
なかんずく、弦楽四重奏曲第13番は、
ものすごくよく研いだ刃物のような感覚で、未だに私のお気に入りの演奏のひとつです。

そのアルバムで、はじめてシュールホフの名を知ったのですが、
当アルバムに収録されている作品の中では、
ピアノのための「ジャズ・エチュード集」が私のお気に入りです。

シュールホフは、
いわゆる「退廃芸術家」のひとりとして、(当人たちにとっては、はなはだ不名誉な呼び名ですが)、
また、強制収容所で他界した芸術家として、興味をもってきたので、けっこう集めてきました。

「シュールホフ:室内楽作品集Vol.2」というアルバム(スプラフォン)の中に、
「ヴァイオリンとチェロのための二重奏曲」が収録されています。
また、無伴奏作品ですが、
「シュールホフ:室内楽作品集」(BIS)の中に、
「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ」が収録されています。

シュールホフは、その決して長くはない生涯の中で、本当に多彩な音楽活動を繰り広げた人ですね。

   

ヒンデミット!
この「偉大なる職人」は、
ありとあらゆる編成の作品を遺しましたね。

ヴァイオリン、ヴィオラのための室内楽作品は、それぞれ複数曲書いていますし、

「無伴奏チェロ・ソナタ」も一曲書いています。

挙げておられるように、「ヴィオラとチェロのための二重奏曲」がありますし、

2つのヴァイオリンのための二重奏作品も、複数曲書いているようです。

いずれの作品も、残念ながら未聴ですが。

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(ヴァイオリンとチェロの二重奏 & 無伴奏 作品)

K様。

ヴァイオリンとチェロのための二重奏作品を、複数書いているマルチヌーですが…
もう一度、作品表を眺め直しましたが、弦楽器のための無伴奏作品は書いていないようです。
約400曲もの、多種多様な作品を書いているし、
演奏家の友人・知人には恵まれ、作曲依頼にはマメに応える人だったのに。
(弦楽器のための無伴奏作品は、彼の資質に合わなかったのか??)これは少々意外ですね。

オネゲルの「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ」および「ヴァイオリンとチェロのためのソナチネ」は、
(ご存じかも知れませんが)timpaniの「オネゲル室内楽作品全集」に収録されており、そちらのディスクを持っております。

バルトークの「44の二重奏曲」(2つのヴァイオリン)は、どちらかと言うと、
(「ミクロコスモス」等と並んで)教育的な意味合いの強い作品でしょう。(先生と生徒の二重奏)
よく知られた「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ」、
私はあまり頻繁に聴きませんが、イザベル・ファウストの演奏(ハルモニア・ムンディ)を気に入っております。

私の棚をよく探すと、「ナヴァラとスーク、世紀のデュオ」と題するディスク(スプラフォン)が見つかりました。(やや大げさなタイトル…)
そこには、マルチヌー、オネゲル、そしてコダーイの二重奏作品が収録されております。
それで思い出しましたが、シュタルケルの演奏する、かの有名な「無伴奏チェロ・ソナタ」の収録されたアルバム(フィリップス)にも、
コダーイの「ヴァイオリンとチェロのための二重奏曲」が入っていました。

弦楽器のみの室内楽作品も、(どちらかと言えば)モノトーンな世界ですが、
弦楽器のみの二重奏作品、無伴奏作品となると、さらに求心的、禁欲的な、厳しい曲調になりますね。(あくまでも大雑把な捉え方ですが)
私はあまり頻繁に聴いているわけではありませんが、
たまにはこうした作品に浸るのも良いと思います。

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(某アプリについて)

○○様。
少々、肌寒くなってまいりましたが、いかがお過ごしでしょうか?
いつも、貴ページの記事を、興味深く読ませていただいております。

某アプリへの、ご招待、ありがとうございます。
ご招待に応じたいところですが…
「人と人とを比較する」
という行為が、私の主義にあいません。
本来、いかなる人でも多種多様な、「その人にしかない素晴らしさ」
を持っているものであり、
「どちらの人の方が ~ と思いますか?」といって比較したり、点数をつけてランキングしたり
することは、あまり好きにはなれないのです。
(一般世間は競争社会であり、やむをえず比較や評価をせねばならない現実はありますが、それはそれとして)
「所詮は軽い遊びであり、ネット上のコミュニケーションの手段ですよ」
といった考え方もあるかも知れませんが、
(私自信もまた、考え方が変わるかも知れませんが)
現在のところ、当アプリには、あまり参加したくない、というのが正直な気持ちです。
せっかくのご招待に応じられず、誠に申し訳ございません。
何卒、ご了承ください。
また、何か別のの機会に、お誘いくださいませ。
時節がら、ご健康にはくれぐれもお気をつけください。

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グスタフ・マーラーの言葉(2)

(1)「『今日日(きょうび)の皆が我も我もと声を上げるこのおそるべきご時勢では(演奏を始める前のオーケストラの各パートの『声部』みたいだ)、自らもまた声を上げるのが不可欠になる。――

  僕は目下、世の中で格闘中だ。確言するが、これは戦いだ、まさしく本当の戦いなのだ、そこでは自分が千もの傷を負っていてそれが血を流していることにもまったく気がつかない。」

  

(2)「――はなからこんなじゃあまり順風満帆とはいかないらしいね!――しかし僕は(引用者注:以下傍点あり)正道を行って、誰をも懼れはしない。」

  

(3)「地に足をつけて一歩一歩交互に踏み出すこと――そのようにしてこそ先へ進めるのだ――僕はそれを毎度の艱難辛苦に満ちた登山パーティーで経験ずみだ。疲労困憊して頂上を振り仰ぐと、僕の力も勇気も消え失せてしまう。そこで頂上はひとまずおいて、一歩また一歩と歩を運んでみる――するといつしかしまいには目標に達しているのだ。」

  

 (※出典はいずれも

  「マーラー書簡集」

   ヘルタ・ブラウコップフ 編  須永恒雄 訳

   2008年11月1日 刊  法政大学出版局)

   

(1)は、同書185ページ、書簡番号191番、

フリードリヒ・レーア宛 [ハンブルク、一八九六年秋] より

 

(2)は、同書226ページ、書簡番号232番、

フリードリヒ・レーア宛 [郵便消印:ハンブルク、一八九七年四月十五日] より

  

(3)は、同書263ページ、書簡番号278番、

ジークフリート・リピーナー宛 [ウィーン] 一九〇〇年八月十九日 より

  

(まだ書きかけ)

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グスタフ・マーラーの言葉

「マーラー書簡集」

 ヘルタ・ブラウコップフ 編  須永恒雄 訳

  2008年11月1日 刊  法政大学出版局

 http://www.amazon.co.jp/%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC%E6%9B%B8%E7%B0%A1%E9%9B%86-%E3%83%98%E3%83%AB%E3%82%BF-%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%95/dp/4588420100/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1252772915&sr=1-1

   

 「勇気を出して頭(こうべ)を上げろ!」(引用者注:傍点あり)

 「君には洋々たる前途が控えているのだ」

 この言葉は、当書籍の184ページ、(本書における)書簡番号189番、

 ブルーノ・ヴァルター宛 [郵便消印:ハンブルク、九六年九月八日]

の中にあります。

  

 19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したグスタフ・マーラー(1860-1911)と、

その影響を受けたブルーノ・ヴァルター(ワルター)(1876-1962)との、

親しく、密接な交友関係は、非常によく知られているところです。

    

 いったいどのような状況で、マーラーがヴァルターに言葉をかけているのか、

詳しくは、他の書籍をひもとかなければなりませんが…

 時にマーラー、36歳。着々と自己のキャリアを築きあげているところ。(ウィーン宮廷歌劇場芸術監督拝命の前年 ; 交響曲第3番を作曲中)

 ヴァルター、20歳。デビューの2年後、まだまだ駆け出しであり、実力は未知数であった頃。

 ヴァルターに対し、同業の先輩たちからの妨害やいやがらせ(のようなこと)があったことが推測されます。

 苦境にあった後輩に対する、力ある先輩からの、渾身の激励であります。

   

 本書における次の書簡(書簡番号190番)は、友人の劇場支配人に対し、

マーラーが、愛する後輩の事態好転のためにしたためたものです。

「彼をひとかどの者として認めてやってください、そのために彼を上からの庇護を授けてやってください。上首尾に事が運ぶように私が味方します!」

 (おそらくヴァルターから、事態好転の知らせが入ったため、この書簡は発送されなかったようです。)

   

 本書は日本語における、

マーラーに関する最新の(2008年11月刊)、

かつ最重要の(本文467ページ、464通の書簡を収録)

文献であり、

ながらく邦訳が待たれていたものです。

(税抜き8300円で、少々値がはりますけれども)

  

…マーラーとヴァルター、

よく知っていると思いこんでいたはずが、実はまだまだ何にも知らなかった、

熱い交流のドラマを、あらためて学ばせていただきました。

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(随想)

人なんか信用できない。
世間なんか信用できない。

絶対におかしい。
こんなこと、やりつづけても無駄じゃないのか。
どうせ、世間なんか、社会なんか、結局はみんな付和雷同する人ばっかりなんだ。

そう思いたくなることも多々ありますが、


見る人は見てくださっている。
きちんと考える人は考えてくださっている。
(あえて口にはだしませんが)
分かる人は分かってくださっている。


こちらの誠実さ、真剣さは、(必ずや)伝わるべき方々には伝わっている。

…そのことを確信しましょう。

(…しかし世間の皆様の「良識の声」を集めるまでには、1日1日の恐ろしいまでの真剣さ、誠実さの積み上げ、積み重ねが必要ですが…)


本日よりは、周囲の全ての皆様に感謝の意を表し、また前進して参りましょう。

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mixiメッセージへの返信

○○様。

    

メッセージ、およびコミュニティへのお誘い、ありがとうございます。

  

ブラームスですか。

      

私のごく個人的な好みで申しますと、決して上位の方には位置していないのですが…

以下に挙げる理由により、彼の生涯の概略、主要な作品についての情報は、とりあえず押さえております。

1.19世紀ドイツ文化において、彼の存在は実に重要であること。故に、「知らない」ではすまされません。

2.鍵盤、弦、管の各器楽奏者、そして声楽家、合唱団メンバー… たちにとって、この上もなく重要な(中核を占める)レパートリーの作曲者であること。故に、「聴いたことがない」というと、各演奏家たちとコミュニケーションができません。

3.(これはごく個人的な理由ですが)私のこよなく愛好する、ロベルト・シューマンが見い出した人物であり、かつまた、ロベルト亡き後のシューマン一族の交友人物の中で、最も重要な人の一人であること。

  

彼の作品で、何をよく聴いているかと申しますと…

器楽作品では、

「ヴァイオリンとチェロのための協奏曲」、(いわゆるドッペル・コンチェルト)

これは本当に大好きです。特にユニゾンを主体とした2楽章。(クララ・シューマンが、「和解の協奏曲」と呼んだのもうなずけます。)

   

むしろ現在では、声楽作品の方に注意して耳を傾けています。

運命の歌(ヘルダーリンの詩による)、哀悼歌(シラーの詩による)、などの合唱曲、

「愛の歌、ワルツ」などの重唱曲、…

あと、ア・カペラ(無伴奏)の合唱曲や、歌曲にも、すばらしい作品がたくさんあります。

(器楽曲ほど構えて作曲していないので、より生身の人間「ブラームスらしさ」が表れていると思います。)

  

現在、興味を持っている視点は…

1.無伴奏合唱曲や歌曲、あるいは室内楽やピアノ作品などの「歌う楽章」に表れた、「ドイツ民謡」の影響。

2.有名な「ハンガリー舞曲集」や、各協奏曲の終楽章などにおける、ロマ族(かつては「ジプシー」と呼ばれていました)の音楽の影響。

3.オルガン作品「11のコラール前奏曲」や、無伴奏合唱曲「2つのモテット」、などにおける、プロテスタント文化の影響。

などですね。

(要するに、民衆がきわめて永い年月をかけて育んできた、この上もなく豊かな「文化的水脈」から、ブラームスが何を学び、くみとって、自分の作品に活かしたか、ということに興味があるわけです。)

    

コミュニティについてですが…

現在、コミュニティへの参加数が上限に達しておりますゆえ、このままでは参加することができません。

せっかくお誘いいただきましたのに残念ですが、時間のある時に整理したうえで、また機会のあるときに参加させていただく、ということにさせていただきたいと思います。

  

長文、大変に失礼いたしました。

  

        潮洲多 航一

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