「チェコスロヴァキア」の項目から
チェコスロヴァキア
Czechoslovakia
中央ヨーロッパの共和国。1918年にかつてのハプスブルグ領ボヘミア、モラヴィア、スロヴァキアを併せて独立した。これは9世紀の大モラヴィア帝国の国家構成を反映している。スロヴァキアは906年にマジャール人の手に落ち、そしてハンガリーの一部として残り、後にハプスブルグ帝国の下に1918年まで支配された。ボヘミアは、歴代の強力なプシェミスル王家によって優勢となり、1029年モラヴィアを統治領として正式に併合した。
ヤン・フスの教えは、この王国に強いプロテスタント的性格を与え、これは皇帝の軍団や十字軍による5回の攻撃(1419~31)にも、また1526年ハプスブルグ家が王に選ばれたときにも損なわれることはなかった。チェコの貴族がハプスブルグ家に敗れた白山の戦い(1620)の後、ボヘミアとモラヴィアは事実上ハプスブルグ帝国の一地方となり、その言語と宗教を用いるよう強制された。これに対する反動は、19世紀の民族復興運動で頂点に達し、1918年の独立を導いた。…
また、1993年1月には、チェコ共和国とスロヴァキア共和国に分離、独立した。本項目では旧チェコスロヴァキアを扱う。
Ⅰ.芸術音楽
1.ボヘミアとモラヴィア
…
(iii)民族主義の発展
18世紀後半の数十年間に、ボヘミアでは文学が非常に盛んになった。このことは、ルソーやヘルダーを読んだ人々による、チェコ語の抑圧に対する抗議の一つの現れである。…
…スメタナは、歴史的主題と伝説的主題による一連のオペラを作曲しようと決意し、〈ダリボル Dalibor〉(1868) と叙事詩的祝典オペラ〈リブシェ Libuse〉で頂点を極める。しかし、〈リブシェ〉は、国民劇場の開場祝典用に81年6月11日まで上演を見合わされた。この劇場は開場後まもなく焼け落ちてしまったが、83年に再度開場される。スメタナの連作、6つの交響詩〈我が祖国〉は、チェコ民族をたたえようというその目的が、一貫して完全に表明されている。民族芸術は現代の作曲技法を採用すべきで、民謡に基づくべきではないというその主張は、伝統主義者から反対され、大衆には誤解された。彼らは〈売られた花嫁〉(1866) を楽しみ、〈接吻 Hubicka〉(1876) を多少もてはやしはしたが、〈ダリボル〉の価値を認めることはできなかった。スメタナは、仮劇場の首席指揮者を努めた66年から74年にかけての8年間に、オペラのレパートリーを広げた。こうして主にイタリアものを減らし、…新しいチェコの作品を幾つか取り入れた。彼は自作によって、チェコ音楽の質をかなりすぐれたレベルにまで高め、それと同時に紛れもなくチェコの様式を確立したのであった。
スメタナは熱烈な愛国者で、自作が外国で演奏されることには興味がなかった。彼の目的は、チェコ音楽のレパートリーを作ることであった。17歳年下のドヴォジャークの名が知られるようになったときに、チェコの芸術と文化を国民の生活のなかに正しく位置づけようとしたその努力は、十分に報われたというべきである。ドヴォジャークも、あまり極端ではないが生まれながらの愛国者であった。その音楽もまた真にチェコのものと見てよい。しかし、彼の場合はそれを自国の人々だけでなく、国外にも進んで提供した。実際、イギリスとアメリカで最大の成功を収めた。しかし、チェコ民族の心にいつまでも残るような舞台作品を書く決心をして、晩年の1901年、〈ルサルカ Rusalka〉で成功を収めた。これはヴァーグナー風の信条に基づいて書かれた妖精譚オペラである。ドヴォジャークのヴァーグナーに対する関心は、そのさまざまな時期の作品に影響を与えているが、ウィーンの作曲家への憧憬やブラームスとの友情は、さらに永続的な影響を与えた。チェコの民俗音楽が基本要素のごく一部を占めていたが、それこそが彼の個性的作風の紛れもない特徴となり、アメリカで耳にした異国風の音楽により衝撃を受けた後も、その基盤は変わらなかった。
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JOHN CLPHAN (関根日出男、内藤久子)
「ニューグローヴ世界音楽大事典」より
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