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2009年4月

第三章「仏教の初門となすを明かす」より

開目抄上  より

 「孔子が此の土に賢聖なし西方に仏図(ふと)という者あり此(これ)聖人なりといゐて外典を仏法の初門となせしこれなり、礼楽等を教て内典わたらば戒定慧をし(知)りやす(易)からせんがため・王臣を教て尊卑(そんぴ)をさだめ父母を教て孝の高きをしらしめ師匠を教て帰依をしらしむ、」 

  (「日蓮大聖人御書全集」187p.) 

  

〔通解〕

 [孔子が「この中国に賢人・聖人はいない。西の方に仏図(ふと)(仏陀)という者があり、その人が真の聖人である」といって、外典である儒教を仏法へ入るための門としたのはこの意味である。すなわち儒教においては礼儀や音楽などを教えて、後に仏教が伝来した時、戒(かい)・定(じょう)・慧(え)の三学を理解しやすくさせるために、王と臣下の区別を教えて尊卑(そんぴ)を示し、父母を尊ぶべきことを教えて孝行道を尽くすことの大切さを知らせ、師匠と弟子の立場を明らかにして、師に帰依することの重要性を教え知らせたのである。]

  (「開目抄講義(上)」、聖教新聞社、38p.)  ※フリガナは適宜、省略しました。

  

〔英訳〕

 "Confucius declared that there were no worthies or sages in his country, but that in the land to the west there was one named Buddha who was a sage.

This indicates that non-Buddhist texts should be regarded as a first step toward Buddhist doctrine.

Confucius first taught propriety and music so that, when the Buddhist scriptures were brought to China, the concepts of the precepts, meditation, and wisdom could be more readily grasped.

He taught the ideals of ruler and minister so that the distinction between superior and subordinate could be made clear, he taught the ideal of parenthood so that the importance of filial piety could be appreciated, and he explained the ideal of the teacher so that people might learn to follow."

  ("The Opening of the Eyes" Part One ;

    The Writings of NICHIREN DAISHONIN , SOKA GAKKAI  221p.)

   ※適宜、改行しました。

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「聖人御難事」より(2)

 「各各師子王の心を取り出して・いかに人をどすともをずる事なかれ、師子王は百獣にをぢず・師子の子・又かくのごとし、彼等は野干のほう(吼)るなり日蓮が一門は師子の吼(ほう)るなり、」

  (「日蓮大聖人御書全集」 1190p.)

   

〔通解〕

 「日蓮門下の一人一人は、師子王の心を取り出して、どのように人が脅そうとも、決して恐れてはならない。師子王は百獣を恐れない。師子の子もまた同じである。正法の人に迫害を加える輩は、キツネの類が吠えているようなものである。日蓮の一門は師子が吼えているようなものである。」

 (「御書をひもとく 要文123選」 14p.)
    ※フリガナは省略しました。

   

〔英訳〕

 "Each of you should summon up the courage of a lion king and never succumb to threats from anyone. The lion king fears no other beast, nor do its cumbs. Slanderers are like barking foxes, but Nichiren's followers are like roaring lions."

  ("On Persecutions Befalling the Sage" ;

       The Writings of NICHIREN DAISHONIN , SOKA GAKKAI  997p.)

    

 「仏法の哲理を語り広げる我らの行動は、民衆抑圧の日本の精神風土を揺り動かし、真に民衆を大切にする社会を創りゆく一大言論戦・思想戦なのだ。」

  (社説 聖教新聞 2009(平成21)4.28.) ※フリガナは適宜、省略しました。

  

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 ※「師子王」は、文字通り"lion king"と訳されているんですね…

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「妙密上人御消息」より

妙密上人御消息

 (法華経功徳抄)

 建治二年(1276年)(閏)三月(五日) 五十五歳御作

 与(くわがやつ)妙密 (於身延)

 「日蓮は何(いずれ)の宗の元祖にもあらず・又末葉にもあらず・」

  (「日蓮大聖人御書全集」 1239p.)

    

〔英訳〕

 "I, Nichiren, am not the founder of any school, nor am I a latter-day follower of any older school."

  ("The Blessings of the Lotus Sutra" ;

      The Writings of NICHIREN DAISHONIN , SOKA GAKKAI  669p.)

 

 [全人類の救済という大願を抱いて立たれた大聖人の「立宗」は、決して一宗一派に偏るものではなかった。]

 [狭隘(きょうあい)な宗派性を超えゆく、仏意仏勅(ぶっちょく)の大慈悲の連帯――それが「日蓮が一門」の大精神であった。だからこそ、宗派の利害に貪著(とんじゃく)する既成諸宗らが、目を瞋(いか)らせて讒言(ざんげん)・謀略に狂奔(きょうほん)したのだ。」

  (社説 聖教新聞 2009(平成21)4.28.) ※フリガナは適宜、省略しました。

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第三十章「日蓮大聖人の知恩・報恩」より

 [此の事・日本国の中に但(ただ)日蓮一人計りしれり、いゐいだすならば殷(いん)の紂王(ちゅうおう)の比干(ひかん)が胸を・さ(割)きしがごとく夏の桀(けつ)王の竜蓬(りゅうほう)が頸を切りしがごとく檀弥羅(だんみら)王の師子尊者が頸を刎(は)ねしがごとく竺(じく)の道生(どうしょう)が流されしがごとく法道三蔵のかなやき(火印)をや(焼)かれしがごとく・ならんずらんとは・かねて知りしかども法華経には「我身命を愛せず、但無上道を惜(お)しむ」ととかれ涅槃経には「寧(むし)ろ身命を喪(うしな)うとも教を匿(かく)さざれ」といさめ給えり、]

  (「日蓮大聖人御書全集」 321p.)

   

〔通解〕

 [このこと(世の不幸の根本原因は邪宗教にあること)は、日本の中に、ただ日蓮一人のみが知っているのである。

もしこのことを世間にいうならば、殷(いん)の紂王(ちゅうおう)が諫言(かんげん)した比干(ひかん)の胸を割(さ)いたように、夏(か)の桀王(けつおう)が同じく竜蓬(りゅうほう)の頸(くび)を切ったように、また檀弥羅王(だんみらおう)が師子尊者の頸をはねたように、また竺(じく)の道生(どうしょう)が蘇山(そざん)に流されたように、法道三蔵が顔に焼き印を押されたように、大迫害をうけるであろうことは、かねてから知っていたが、

しかし、法華経には「我れ身命を愛せず、但(ただ)無上道を惜しむ」と説かれ、涅槃経には「むしろ身命を喪(うしな)うとも、正法を匿(かく)していてはいけない。いいきらなければならない」といましめられている。]

  (「日蓮大聖人御書十大部講義 第五巻 報恩抄」 327-328p.)

     ※適宜、改行しました。

   

 「日蓮は、釈尊の精神から逸脱した仏教界やこれと結託した邪悪の権力に対して、断固として闘い抜きました。比干や竜蓬と同じ正義の生き方を貫きます。そして、日蓮の一門を迫害した人々には、必ずや傑王や紂王の如く、身の破滅と国家の滅亡が待っているであろう、と警告するのです。」

  (「生活に生きる故事・説話 ――日蓮の例話に学ぶ―― (中国・日本編)」 若江賢三・小林正博 共編 第三文明社 レグルス文庫 195p.)

   

 [なかんずく、巍々堂々たる太行山脈に抱かれた、貴大学の立つ景勝の新郷市は、「古代第一の忠臣」と讃えられる比干が眠る天地でもあります。

 祖国のため、民衆のために、迫害を恐れず、命を賭して、正義を叫び切った、その崇高なる人生の劇は、私どもの信奉する日蓮仏法においても、「賢人」「報恩」の手本として、繰り返し賞賛されております。

 わが恩師も、日本の軍国主義と戦い抜いて獄死した、創価教育の父・牧口常三郎先生と重ね合わせて、私たちに語ってくださっておりました。]

  (「河南師範大学」からの「名誉教授」称号授与式での、池田名誉会長の謝辞 

           聖教新聞 2009(平成21).4.25(土)) ※フリガナは省略しました。

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「聖人御難事」より

聖人御難事

 弘安二年(1279年)十月(一日)  五十八歳御作

 与門人等  (於身延)                より

 「過去現在の末法の法華経の行者を軽賤する王臣万民始めは事なきやうにて終(つい)にほろびざるは候はず、」

  (「日蓮大聖人御書全集」1190p.)

  

〔通解〕

 「過去及び現在の、末法の法華経の行者を軽蔑し、いやしめる権力者と民衆は、初めは何事もないようであっても、最後には滅びない者はない。」

  (「御書をひもとく 要文123選」 248p.) ※フリガナは省略しました。

  

〔英訳〕

 "In the past, and in the present Latter Day of the Law, the rulers, high ministers, and people who despise the votaries oh the Lotus Sutra seem to be free from punishment at first, but eventually they are all doomed to fall."

    ("On Persecutions Befalling the Sage" ;

       The Writings of NICHIREN DAISHONIN , SOKA GAKKAI  997p.)

   

  「この峻厳な御金言には、一つの例外もない」

   (「御書をひもとく 要文123選」 249p.) ※フリガナは省略しました。

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「マナス」

(書籍メモ)

   

「マナス 少年編 ―キルギス英雄叙事詩」

  http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4582806945.html (紀伊国屋書店 BookWeb)

「同 青年編」

  http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4582807178.html (同)

「同 壮年編」

  http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4582807402.html (同)

 以上 若松寛 訳  平凡社 東洋文庫

    

 「キルギスの有名な叙事詩『マナス』は、千年の時を超えて、英雄マナスの活躍を語り継ぐ世界最大の口承文学。」

 「吟唱を会得するには相当の修練が必要だが、その伝承方法には「家伝」と「師承」があるという」

 「幼い時から、家庭で日々、『マナス』に接し、父や兄から薫陶を受ける。その後、名のある師匠を訪ねて、内容の理解を深め、技巧を習得する」

  (「名字の言」 聖教新聞2009(平成21).4.15(水))

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「普賢品六箇の大事」より

御義口伝巻下

 普賢品六箇の大事

  第六此人不久当詣道場(しにんふくとうけいどうじょう)の事 より

  「此の品の時最上第一の相伝あり、釈尊八箇年の法華経を八字に留めて末代の衆生に譲(ゆず)り給うなり八字とは当起遠仰当如敬仏(とうきおんごうとうにょきょうぶつ)の文なり、此の文までにて経は終るなり当の字は未来なり当起遠仰とは必ず仏の如くに法華経の行者を敬う可しと云う経文なり、」

   (「日蓮大聖人御書全集」 781p.)

   

〔通解〕

  [この(普賢)品の時に、最上第一の相伝がある。釈尊が八年にわたって説いた法華経を八文字に留めて、後の世の人々に譲り与えられたのである。その八文字とは「当起遠仰当如敬仏(とうきおんごうとうにょきょうぶつ)」(当(まさ)に起(た)って遠く迎(むか)うべきこと、当に仏を敬うが如(ごと)くすべし)の文である。この文までで、法華経は終わるのである。「当」の字は、「未来」ということである。「当起遠迎」とは、「仏を敬うのと同じように、必ず、法華経の行者を敬わなければいけない」という経文である。]

   (「法華経の智慧 第六巻 ――二十一世紀の宗教を語る」 聖教新聞社 297p.)

   ※フリガナは、適宜省略しました。

   ※ハードカバー版のページ数です。

    「聖教ワイド文庫」版とはページ数が違うかもしれませんので、ご注意ください。

  

  [「一人の人を大切に」。これしかない。これに徹したところが勝つ。このことは、何度でも言っておきます。] 

   (「法華経の智慧 第六巻 ――二十一世紀の宗教を語る」 聖教新聞社 299p.)

   (「普賢菩薩勧発品 広布の同志を『仏の如く』敬え」の「誠心誠意で、人の心を満たす」のところ。)

    ※フリガナは省略しました。

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第一章「報恩の道理を明かす」

報恩抄

                         日蓮之を撰す

 〔建治二年(1276年)七月二十一日 五十五歳御作

  与浄顕房・義浄房 於身延             〕

  

 「夫れ老狐(ろうこ)は塚をあとにせず白亀(はくき)は毛宝(もうほう)が恩をほう(報)ず畜生すらかくのごとしいわうや人倫をや、されば古への賢者予譲(よじょう)といゐし者は剣をのみて智伯が恩にあてこう(弘)演と申せし臣下は腹をさ(割)ひて衛(えい)の懿公(いこう)が肝(きも)を入れたり、いかにいわうや仏教をならはん者父母・師匠・国恩をわするべしや、」

  (「日蓮大聖人御書全集」 293p.)

 

〔通解〕

 「そもそも、老いた狐は、生まれた古塚を忘れず足を向けないと言われ、また、毛宝(もうほう)に助けられた白い亀は、後に戦いに敗れた毛宝を背に乗せて助け、その恩に報いたという。

 畜生ですら、このように恩を知る。まして人間が不知恩であってならないのは当然である。

 故に、昔の中国の賢者・予譲(よじょう)と言う人は、主君・智伯(ちはく)の恩に報いようとして、剣をのんで死んだ。また衛(えい)の弘演(こうえん)は、主君の懿公(いこう)が戦死した時、主君の恥をさらすまいとして、自分の腹を割いて、懿公の肝を入れて死んだ。

 まして仏法を習う者が、父母、師匠、国の恩を忘れてよいわけがあろうか。」

  (「大白蓮華」 2009年4月号 66p.) ※フリガナは適宜、省略しました。

    

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御書に引用されている、インド、中国、日本の様々な故事、エピソード、などについて、

より詳しく学びたい方のために、書物を紹介しておきます。

  

「生活に生きる故事・説話 ――日蓮の例話に学ぶ―― (インド編)」

「同 (中国・日本編)」

 若江賢三・小林正博 共編、 第三文明者 レグルス文庫

    

予譲については、同書中国・日本編の53p.~に、

弘演については、同じく中国・日本編の166p.~に述べられています。

  

(この予譲、弘演については、「一谷入道御書」(1326p.)でも触れられています。

また、弘演については、「四条金吾殿御消息」(1113p.)でも触れられています。)

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「廿八品に一文充(ずつ)の大事」より

御義口伝巻下

 廿八品に一文充(ずつ)の大事

  涌出品  より

  「一念に億劫(おくごう)の辛労(しんろう)を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり。」

   (「日蓮大聖人御書全集」 790p.)

   

[通解]

  「億劫(という、きわめて長遠の時)にわたって尽くすべき辛労を、わが一念に尽くしていくならば、もともと自分の身に具(そな)わっている無作三身(むささんじん)の仏の生命が、瞬間瞬間に現れてくる。いわゆる南無妙法蓮華経は精進行である。」

   (「御書をひもとく 要文123選」 208p.)
    ※フリガナは省略しました。

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「如説修行抄筆記」より

「如説修行抄筆記」 より

  

 「…師弟相対に約せば、如説とは師説なり。修行とは弟子に約す。謂(いわ)く、師の諸説の如く弟子これを修行す、これ如説修行なり。」

  (「日寛上人文段集」 748p.)

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第二章「儒家の三徳」より

[本文]

 「かくのごとく巧(たくみ)に立つといえども・いまだ過去・未来を一分(いちぶん)もしらず玄(げん)とは黒(こく)なり幽(ゆう)なりかるがゆえに玄という但(ただ)現在計(ばか)りしれるににたり、」

 (「日蓮大聖人御書全集」186p.) ※フリガナを適宜、付しました。

  

[通解]

 「儒教等の中国諸教の賢人・聖人たちが、さまざまな形で巧(たく)みにその理論を立ててはいるが、まだ、過去世・未来世については何も知らない。彼らが説く「玄」とは黒(こく)であり、幽(かす)かという意味であり、微妙であるゆえに「玄」と言われているのであるが、ただ、現世のことだけを知っているにすぎないようである。」

 (「開目抄講義(上)」、聖教新聞社、38p.)  ※フリガナは一部、省略しました。

  

[英訳]

  "There are theories that are cleverly argued, but that fail to take cognizance of either the past or the future. Mystery, as we have seen, means darkness or obscurity, and it is for this reason that it is called mystery. It is a theory that deals with matters only in terms of the present."

 ("The Opening of the Eyes" Part One ;

    The Writings of NICHIREN DAISHONIN , SOKA GAKKAI  220p.)

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「観心本尊抄文段」より

「観心本尊抄文段上」

 (序) より

 「故に暫(しばら)くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、即ち祈りとして叶(かな)わざるなく、罪(つみ)として滅せざるなく、福として来(きた)らざるなく、理として顕(あらわ)れざるなきなり。」

  (「日寛上人文段集」 443p.)

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第一章「三徳の標示」

開目抄上

 文永九年(1272年)二月 五十一歳御作

 与門下一同 於佐渡塚原

  

「夫れ一切衆生の尊敬すべき者三あり所謂(いわゆる)主師親これなり、又習学すべき物三あり、所謂儒外内これなり。」

 (「日蓮大聖人御書全集」186p.) 

  

[通解]

「そもそも、あらゆる人々が尊び敬うべきものが三つある。それは、主と師と親である。また、習い学ぶべきものが三つある。それは儒教・道教などの中国の諸教と、外道(仏教以外のインド諸教)と、そして内道(仏教)である。」

 (「開目抄講義(上)」、聖教新聞社、36p.)    ※フリガナは省略しました。

[英訳]

"There are three categories of people that all human beings should respect. They are the sovereign, the teacher, and the parent. There are three types of doctrines that are to be studied. They are Confucianism, Brahmanism, and Buddhism."

("The Opening of the Eyes" Part One ;

    The Writings of NICHIREN DAISHONIN , SOKA GAKKAI  220p.)

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「富木殿御書」より

富木殿御書
 (止暇断眠御書)
 
  建治元年(1275年)(八月二十三日) 五十四歳御作
  与富木常忍 (於身延)
 
「我が門家(もんけ)は夜は眠りを断(た)ち昼は暇を止めて之を案ぜよ一生空しく過して万歳悔ゆること勿(なか)れ、」
(「日蓮大聖人御書全集」970p.)
 
〔通解〕
「わが一門の者は夜は眠りを断ち、昼は暇なくこのことを思案しなさい。一生空しく過ごして万歳(ばんさい)に悔いることがあってはならない。」
 (「御書をひもとく 要文123選」158p.)
 ※フリガナは省略しました。

 

[英訳]

 "my followers, that you had better cut short your sleep by night and curtail your leisure by day, and ponder this! You must not spend your lives in vain and regret it for ten thousand years to come."

("The Problem to Be Pondered Night and Day" ;

    The Writings of NICHIREN DAISHONIN , SOKA GAKKAI  622p.)

 

※「このことを思案しなさい」の「このこと」とは…

 そのまま本抄の文面どおりとらえるならば、

 真言の邪義が、日本国中をたぶらかしていること、

 日本天台宗の高僧たちが、真言の邪義を取り入れてしまったことなど。

 (当時の大多数の人々には、それが分からなかった。恐ろしいことに、伝教大師のご精神は、師敵対の輩によって早々に滅びていたわけです。)

 敷衍(ふえん)して、より拡げてとらえるならば、

 いったいだれが、人々を善の方向へ導くために、生命がけで真剣に戦っている真実の指導者なのか、

 だれが、人々をたぶらかし、私利私欲をむさぼっている連中なのか、

 しっかりと見極めていきなさい。

 …といったご指導であると、拝されます。

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「化城喩品七箇の大事」より

御義口伝巻上

 化城喩品七箇の大事

  第七皆共至宝処(かいぐしほうしょ)の事 より

   「日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は一同に皆共至宝処なり、共の一字は日蓮に共する時は宝処に至る可し不共ならば阿鼻大城(あびだいじょう)に堕つ可し」

    (「日蓮大聖人御書全集」734p.)

   

[通解]

   「南無妙法蓮華経と唱える日蓮の一門は、一同に『皆、共(とも)に宝処に至る』のである。この『共』の一字は、日蓮と『共』に進む時は必ず宝処に至る。『共』に進まないならば阿鼻大城(無間地獄)に堕(お)ちるということである。」

   (「聖教新聞」2009(平成21)4.20) ※フリガナは省略しました。

   

 「広布の師弟共戦は、晴れ晴れとした、永遠の幸福勝利の道なのである。」

 「大難が襲いかかって来た時に、師匠の恩を忘れ、裏切るならば、峻厳な報いを受ける。」

 

※書き直させていただきました。

 厳しい御文ですね…

  

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「核兵器廃絶への民衆行動の10年」

 英語版公式ウェブサイト

 http://www.peoplesdecade.org

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