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2009年5月

エルネスト・ブロッホの言葉

「スイスの森や山の中で、私は《マクベス》を書いた。そのとき、私は二十五歳であった。その作品はわりあいに早くできあがった。そのほとんどは、燃え上がるような心をもって書いたが、そうでないところは、修正と削除をゆっくりと行なった。ある情景ははげしい喜びを私に与えてくれたが、しばしば失望することもあった。ときには、詩と音楽を完全に結合することができたと感じたが、そうでないときは、落胆で打ちのめされてしまった。私のやるべきことはシェークスピアを鏡のように映し出すことで、同時に私自身を主張することであった。私はドビュッシーでもなければワーグナーでもないし、だからといってフランクでもない。私はつねに完全に私自身なのである。その点では私はきわめてエゴイストである。私は偏見は持っていないが、他の人の表現を真似しようとは思わない。賛嘆はするが、それを模倣しようとは思わない。芸術家の発展というものは、嬰児の成長に似たところがある。」

 「…これはマリア・ティバルディ・キエザというイタリアの女流評論家が書いた『アーネスト・ブロック』という書に紹介されている彼の言葉の一節。ブロックが一九〇九年までに書いた、ただ一つの歌劇《マクベス》に関連して語った随想ふうな一文である。」

 「…ここでふれられている歌劇《マクベス》は彼の若い時代の作品で、このジャンルではこれ一作しかない。作風的には後期ロマン主義的な技法でまとめられており、そのためか、ここでの言葉は若さの気負いみたいなものを彷彿とさせるが、同時にそれが創作活動の基本ということも感じさせるところがある。」

  (「大作曲家があなたに伝えたいこと 100のアイディア」 千蔵八郎、春秋社、1998年刊、136-137p.)

    

 たまたま自宅にあった書物から、引用させていただきました。

「アーネスト・ブロック」というのはもちろん、Ernest Bloch (1880-1959)の英語読みです。

ブロッホについての、単独の日本語書籍は(私の知る限り)出版されていないので、こうした記事が、たいへん貴重であります。

  

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 ※mixiのコミュニティ、"Ernest Bloch"のための記事です。

(管理人様のご指名により、副管理人をさせていただいております。)

今年は没後50年。「シェロモ」以外は、まだまだかなりマイナーといえるこの作曲家、

少しでも多くの新たな情報が、わが国にも入ってきてほしいですね。

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「田園交響曲」(ベートーヴェン)

(つれづれなる考察)

「田園交響曲」について、着目すべき点は多々あるのですが…
ここでは後半2つの楽章、
「雷雨、嵐」と
「牧人の歌。嵐の後の喜ばしい感謝の感情」
に着目してみましょう。
ベートーヴェンはカントの哲学を深く学んでいたわけですが、「内なる小宇宙」(自己の胸中)と「外なる大宇宙」(環境)とは一体不可分である、ということを確信していた、と思われます。
であるならば、「田園交響曲」の「嵐」とは、「外なる嵐」を描いていると同時に、人生の途上で襲いかかってくる、胸中の「内なる嵐」を描いている、と言えるのではないか。
同じように、「嵐の後の感謝の感情」とは、文字通り嵐が去った後の、大自然の崇高なる情景を描いていると同時に、
「人生の嵐」を乗り越えた後の、胸中の広大なる境涯を描いているのではないかと思われます。

ベートーヴェンの名付けた「田園」とは、「外なる嵐」および、そこに住む人々の「胸中の嵐」を乗り越えた後に立ち現れる、
偉大なる、崇高なる理想境(アルカディア)を示しているのではないでしょうか。

…以上、私の愚考でした。
(色々と、文証を挙げたいところですが、また別の機会に…)

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バルシャイの「交響曲第14番」(ショスタコーヴィチ)

大変、喜ばしいことに…
バルシャイ指揮 モスクワ室内管弦楽団による、ショスタコーヴィチ「交響曲第14番」(スタジオ録音)が、ようやく復刻されます。
(メロディア音源を中心に、廉価で復刻している良心的なレーベル、ヴェネツィアより)
記憶に間違いがなければ、かつてビクターから国内盤CDが出て依頼ですから、本当に久しぶりですね。

この作品をこよなく愛することにかけては、決して人後に落ちない筆者でありますが、
何を隠そう、この録音はまだ聴いておりません!!!
(バルシャイとヴィシネフスカヤのライヴ録音の方は、愛聴しておりますが)
…入手の日が楽しみです。

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メシアン三昧な日々

このところ、私の耳はすっかり「メシアン漬け」になっておりまして…
手持ちのメシアンのディスクを、あと2枚ほどで聴き終えるところ。

   
〔ドイツ・グラモフォンの「コンプリート・エディション」32枚。

エラート音源を集大成した「メシアンの芸術」17枚(私の持っているのは、BMGファンハウスから出ていた国内盤。クロード・サミュエルによる、作曲者へのインタヴュー付き)。

小澤征爾指揮の「アッシジの聖フランチェスコ」と「トゥランガリーラ交響曲」。

ラトル指揮の「彼方の閃光…」(EMI)

計55枚也。〕

     
ある時はパソコンに向かいながら、またある時は勉強しながら、食事の時、移動中、就寝直前、(睡眠学習中…?)、休日の寝起き、読書中、トイレの中、ボーッとしている時、等々…隙間時間を用い、
トラックごと、あるいはトラックの途中で、細切れになったり、かなり時間が開いたり…といった感じで、メシアン信奉者の方々からはお叱りを受けそうですが、
とにもかくにも、あと少しで通聴できるところにこぎつけました。
(しかしやっぱり、食卓や一家団欒には向きませんね。)

合わせて、手持ちの音楽事典の、メシアン関係の記事も、かなり読み終えました。(やはり、フランスからの出版で、作品解説が充実している「ラルース世界音楽事典」のお世話になりました。大変失礼ながら、メシアン先生ご本人の解説よりも、とっても分かりやすい!)

メシアン関係の単行本には、まだ目が通せていないのですが…

     

               
印象を簡単に記すのは、難しいのですが…
「アッシジの聖フランチェスコ」における鳥たちのさえずり、

(やはりここでの「鳥たち」は、言葉こそ発しませんが、天使や聖フランチェスコに次ぐ、重要な役割を与えられているように思われます。)

    
「異国の鳥たち」における意外なエンターテイメント性、

(ここでの鳥たちの鳴きっぷりは、本当に凄いです。)

    
「ハラウィ」における「トゥランガリーラ交響曲」をはるかにしのぐ官能性、

(やはり人の声というのは、オンド・マルトノより凄いです。)

「我らの主 イエス・キリストの変容」の冒頭などにおける、意外な異国情緒、

(やはりこの人の知的許容量は、とてつもなく広く、深いです。カトリックの典礼と、ガムラン風の音楽を結びつけるなんて!)

   
…といったところが、ざっと挙げられます。

   

自作自演のオルガン曲集(EMI)、そして入手しにくいオルガン即興演奏集、などをぜひ聴きたいですね…

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「自然における神の栄光」(ベートーヴェン)

ルートヴィヒ・ファン・ベートーヴェン(1770-1827)

 ゲレルトの詩による6つの歌 作品48 (1802年3月以前)

  ~4. 自然における神の栄光

 「天空の無数の星を支えるのは、誰か?

 太陽をその天幕より導き出すのは、誰か?

 太陽は昇り、輝き、彼方より笑いかけ

 勇士のように、その軌道を歩みゆく

 勇士のように、その軌道を歩みゆく 」

  (クリスティアン・フュルヒテゴット・ゲレルト(1715-1769)) 

  (高橋浩子 訳 「ベートーヴェン全集 第6巻 歌曲 民謡編曲 、別冊[対訳]」 12p.)

    

 「この作品が作曲された1801年から1802年にかけてはベートーヴェンにとって苦しい試練の時であった。1801年6月に彼は初めて自分の難聴を友人で医師のヴェーゲラーに手紙で訴えている。耳の異常はすでにその2年前から自覚されていた。人に打ち明けざるを得ないほど難聴が進んでいたこの時期に、信仰告白のような詩を6編まとめて選んだことはその病状と無関係ではないだろう。」

  (高橋浩子、「ベートーヴェン全集 第6巻 歌曲 民謡編曲」 231p.)

    

 「昇りゆく朝日のごとく、勢いよく勇敢に、常楽我浄の生命の軌道を、前へ前へ進んでまいりたい。」

  (「5・3祝賀最高代表協議会での名誉会長のスピーチ㊤」 聖教新聞2009(平成21)5.1.(金))

   ※フリガナは、省略しました。

    

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…   

前楽団長 殿

 (見てないでしょうけど)

 とても大切な、この上もなく大切な場面において、

 私のような者にお声をかけてくださり、

 本当に感謝しております。(他にもっと優秀な方もいらっしゃったでしょうに…)

 「あの時」があったからこそ、

 職場においても、地域においても、

 現在の自分があります。

 そしてまた、重要な場面において、お役に立つことができず、

 心よりお詫び申し上げます。

 これより先、ご恩返しと、お詫びをする機会があるかどうかわかりませんが…

 報恩感謝の思いで、

 目の前の課題に全力で取り組み、

 地域の皆様のために、尽くさせていただきたいと思います。

   

 ともあれ、新しいお立場でのご出発、本当におめでとうございます。

 どうか、お身体には、くれぐれも、お気をつけくださいませ。

  

     2009年5月9日(土)

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「南無妙法蓮華経」より

南無妙法蓮華経  より

 「経とは一切衆生の言語音声を経と云うなり、釈に云く声仏事を為す之を名けて経と為すと、」

  (「日蓮大聖人御書全集」 708p.)

   

〔通解〕

 「経とは一切衆生の言葉、発する音、声をいうのである。章安大師は『声が仏の働きをする。これを名づけて経という』といっている。」

  (「御書をひもとく 要文123選」 106p.)
    ※フリガナは省略しました。

 

〔英訳〕

 ”Kyo represents the words and voices of all living beings. A commentary [On "The Profound Meaning," volume one] says, "The voice carries out the work of the Buddha, andthis is called kyo, or sutra."”

  ("Nam-myoho-renge-kyo" ;  The Record of the Orally Transmitted Teachings , Translated by Burton Watson , Soka Gakkai  4p.)

 

「ともあれ、しゃべることだ。語ることだ。叫びきることだ。

 その言論の力が、邪悪を破り、正義を宣揚する宝剣となる。」

  (「5・3記念代表者会議での 名誉会長のスピーチ①」 聖教新聞 2009(平成21).5.6(水))

  

 「生命の『力』は、何より『声』に現れる。だから、どういう声、どういう言葉を発するかで、心も変わり、体も変わり、命も変わる。『声仏事を為す』です。『声悪事を為す』場合もある。良き言葉は、良き心と体をつくる。悪い言葉は、悪い心と体をつくる」

  (「御書をひもとく 要文123選」 107p.)

  
    ※フリガナは省略しました。

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「安楽行品五箇の大事」より

御義口伝巻上

 安楽行品五箇の大事

  第一安楽行品の事 より

  「末法に於て今日蓮等の類(たぐ)いの修行は妙法蓮華経を修行するに難来るを以て安楽と意得可きなり。」

   (「日蓮大聖人御書全集」 750p.)

  

〔通解〕 

  「末法において、日蓮大聖人及びその門下の修行に約していえば、妙法蓮華経を修行するのに、難が襲ってくることをもって、安楽であると心得るべきである。」

   (「御書をひもとく 要文123選」 72p.)
    ※フリガナは省略しました。

   

〔英訳〕

Point One, concerning the "Peaceful Practices" chapter

”the practices carried out by Nichiren and his followers now in the Latter Day of the Law, you should understand that, when one practices the Lotus Sutra under such circumstances, difficulties will arise, and these are to be looked on as "peaceful" practices.”

  (Part One [The Lotus Sutra] "Chapter Fourteen: Peaceful Practices  Five important points" ;  The Record of the Orally Transmitted Teachings , Translated by Burton Watson , Soka Gakkai  115p.)

  

 「広宣流布も、人生も、難と戦うからこそ、偉大な前進があるのだ。」

  (「5・3記念代表者会議での 名誉会長のスピーチ①」 聖教新聞 2009(平成21).5.6(水))

  

 「『難即安楽』といっても、指導者に『全同志を必ず安楽の境地に導いてみせる』との一念がなければ観念論です」

  (「御書をひもとく 要文123選」 73p.)

  
    ※フリガナは省略しました。

    

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(ひとこと)  

 ※厳しいですね… しかし、指導者にはそれだけの責任がある、ということでしょう。

 ※英訳の「御義口伝」は、英訳の「御書」2巻とは別に、単独で出版されています。

 翻訳は、英訳「妙法蓮華経」も出版されている、バートン・ワトソン博士によるものです。

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「不可惜所領事」より

四条金吾殿御返事

 (不可惜所領事)

 [建治三年(1277年)丁丑(ひのとうし)七月 五十六歳御作

  与四条金吾頼基 於身延                  ]

  

 「一生はゆめ(夢)の上・明日(あす)をご(期)せず・いかなる乞食には・なるとも法華経にきずをつけ給うべからず、されば同くは・なげきたるけしき(気色)なくて此の状に・かきたるが・ごとく・すこしも・へつら(諂)わず振舞(ふるまい)仰せあるべし、中中へつらうならば・あしかりなん、」

  (「日蓮大聖人御書全集」 1163-1164p.)

  

〔通解〕

 「一生は夢の上の出来事のようであり、明日のこともわからない。どのような辛い境遇にはなっても、法華経に傷をつけてはならない。

 それゆえに、同じ一生を生きるのであれば、嘆いた様子を見せないで、私がこの陳状に書いたように少しもへつらわず振る舞い、語っていきなさい。なまじへつらうならば、かえって悪くなるであろう。」

  (「大白蓮華」 2009(平成21).5 94p.)

   ※フリガナは省略しました。

  

〔英訳〕

 "This life is like a dream. One cannnot be sure that one will live until tomorrow. However wretched a begger you might become, never disgrace the Lotus Sutra.

Since it will be the same in any event, do not betray grief. Just as you have written in your letter, you must act and speak without the least servility. If you try to curry favor, the situation will only worsen."

  ("A Warning against Begrudging One's Fief" ;

    The Writings of NICHIREN DAISHONIN , SOKA GAKKAI  824p.)

   ※適宜、改行しました。

    

 「四条金吾は、師・大聖人の仰せ通りの振る舞い、実践で、最終的には難を乗り越え、所領の加増という結果をもって、主君からの信頼を勝ち取りました。この師弟不二の精神を心に刻みたいと思います。」

 (「『四条金吾殿御返事』に学ぶ」 聖教新聞 2009(平成21).5.5(火))

  ※フリガナは省略しました。 

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第二十九章「二乗の法華深恩を論ず」より

 「いかでか此の経の重恩をば・ほうぜざらん、若しほうぜずば彼彼の賢人にも・をとりて不知恩の畜生なるべし、毛宝が亀はあを(襖)の恩をわすれず昆明池(こんめいち)の大魚は命の恩をほうぜんと明珠を夜中にささげたり、畜生すら猶恩をほうず何(いか)に況(いわん)や大聖をや、」

    (「日蓮大聖人御書全集」 204p.)

   

〔通解〕   

 「どうして法華経の重恩を報じないでいられようか。もし報じないならば、外道の賢人たちにも劣る不知恩の畜生である。毛宝に救われた亀は、毛宝が自分の衣類を売って救ってくれた恩を報じ、昆明池の大魚は、漢の武帝に救われた恩を報じようとして、明珠(みょうじゅ)を夜中に捧げたと伝えられている。畜生すらかくのごとく恩を報じているから、まして舎利弗・迦葉等の大聖が恩を報じないわけがあろうか。」

  (「日蓮大聖人御書十大部講義 第二巻 開目抄上」 301-302p.)

   ※フリガナは適宜、省略しました。

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「善無畏三蔵抄」より

善無畏三蔵抄

 (師恩報酬抄)

 文永七年(1270年) 四十九歳御作

 与義浄房・浄顕房 於鎌倉

  

 「所詮(しょせん)・智者は八万法蔵をも習ふべし十二部経をも学すべし、末代濁悪世(まつだいじょくあくせ)の愚人は念仏等の難行(なんぎょう)・易行(いぎょう)等をば抛(なげう)って一向に法華経の題目を南無妙法蓮華経と唱え給うべし、日輪・東方の空に出でさせ給へば南浮(ぶ)の空・皆明かなり大光を備へ給へる故なり、蛍(ほたる)火は未だ国土を照さず宝珠は懐中に持ぬれば万物皆ふらさずと云う事なし、瓦石は財(たから)をふらさず念仏等は法華経の題目に対すれば瓦石と宝珠と蛍火と日光との如し。

 我等が昧(くら)き眼を以て蛍火の光を得て物の色を弁ふべしや、旁(かたがた)凡夫の叶いがたき法は念仏・真言等の小乗権経なり、」

  (「日蓮大聖人御書全集」 883-884p.)

  

〔通解〕

 「結局、智者は八万法蔵をも習うべきであり、十二部経をも学ぶべきである。しかし末代濁悪世(まつだいじょくあくせ)の愚人は念仏等の難行道(なんぎょうどう)・易行道(いぎょうどう)等の義を抛(なげう)って、ただひたすらに法華経の題目を南無妙法蓮華経と唱えるべきである。

太陽が東方の空にのぼったならば、南閻浮提(なんえんぶだい)の空は皆明るくなる。太陽が大光を備えているからである。

蛍火は一国土でさえ照らすことができない。また、宝珠を懐中に持っていれば、どんなものでも降らすことができるが、瓦や石は財宝を降らすことができない。念仏等は、法華経の題目にくらべれば、瓦石(がしゃく)と宝珠、蛍火と日光とのようなものである。

我等のような昧(くら)い眼の者が蛍火の光によって物の色をわきまえることができようか。いずれにしても、凡夫の成仏が叶(かな)いがたい教法は、念仏・真言等の小乗経・権経である。」

  (「日蓮大聖人御書講義 第十四巻」 69-70p.)

   ※適宜、改行しました。

  

〔英訳〕

 "Persons of wisdom should of course devote themselves to the study of all the eighty thousand doctrines of Buddhism, and should become familiar with all the twelve divisions of the scriptures.

But ignorant persons living in this latter age of ours, a time of eviland confution, should discard the socalled difficult-to-practice way and easy-to-practice way that the Nembutsu believers talk of, and devote themselves solely to chanting Nam-myoho-renge-kyo, the daimoku of the Lotus Sutra.

  When the sun rises in the eastern sector of the sky, then all the skies over the great continent of Jambudvipa in the south will be illuminated because of the vest light that the sun possesses.

But the feeble glow of the firefly can never shed light on a whole nation.

One who carries in one's robe a wishgranting jewel can have any desire fulfilled, but mere shards and stones can confer no treasures.

The Nembutsu and other practices, when compared to the daimoku of Lotus Sutra, are like shards and stones compared to a precoius jewel, or like the flicker of a firefly compared to the light of the sun.

  How can we, whose eyes are dull, ever distinguish the true color of things by the mere glow of a firefly?

The fact is that the lesser, provisional sutras of the Nembutsu and True Word schools are not teachings that enable ordinary people to attain Buddhahood."

  ("The Tripitaka Master Shan-wu-wei" ;

    The Writings of NICHIREN DAISHONIN , SOKA GAKKAI  169-170p.)

   ※適宜、改行しました。

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第三十章「日蓮大聖人の知恩・報恩」より(2)

 「今度命(いのち)をおしむならば・いつの世にか仏になるべき、又何(いか)なる世にか父母・師匠をもすくひ奉るべきと・ひとへ(偏)に・をもひ切りて申し始めしかば案にたがはず或は所をお(追)ひ或はの(詈)り或はう(討)たれ或は疵を・かうふ(被)るほどに去(い)ぬる弘長元年辛酉(かのととり)五月十二日に御勘気(ごかんき)を・かうふりて伊豆の国伊東にながされぬ、又同じき弘長三年癸亥(みずのとい)二月二十二日にゆりぬ。」

  (「日蓮大聖人御書全集」 321-322p.)

   

〔通解〕

 「このたび正法流布のために命を惜しんで仏勅を実践しなかったならば、いつの世に仏になることができようか。

また、いつの世にわれ成仏して父母、師匠を救うことができようか。

このように考えて、ひとえに思い切って正法をもって国家諌暁したゆえに、思ったとおり、あるいは所を追われ、あるいは悪口をいわれ、あるいは討たれ、あるいはわが身に傷を蒙るというような迫害を受けつづけたのである。

そして、ついにさる弘長元年(辛酉(かのととり))五月十二日に御勘気を受けて、伊豆の国、伊東の地に流罪された。

しかし、それは同じく弘長三年(癸亥(みずのとい))二月二十二日に許されたのである。」

  (「日蓮大聖人御書十大部講義 第五巻 報恩抄」 328p.)

   ※適宜、改行しました。

    

 「不惜身命の行動、末法の一切衆生を救わんとの大願――その御心中には、父母と師匠への報恩の一念があられたのである。

 日蓮仏法には、その出発点から、赫々たる報恩の一念が脈打っている。このことを、私たちは心肝に染めてまいりたい。」

  (「5・3祝賀最高代表協議会での名誉会長のスピーチ㊤」 

       聖教新聞 2009(平成21).5.1.(金))

   ※フリガナは省略しました。

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